昭和44年01月22日 夜の御理解
八時から何時もやっとりますね。銭形平次と言うのを、あの主題歌に「今日も決め手の銭が飛ぶ」と言うところがあるね。今日も決め手の銭が飛ぶという。信心にもやはり一つの決め手と言うものがあるのです。信心の決め手を会得すること覚えること。そこを自分のものにする、これがおかげを頂く決め手、又はお徳を頂く決め手に繋がって行く。おかげを頂きますと信心がいよいよ有り難いものになる。一つの事柄それを只々おかげにすると言うだけではなくて。
その一つの願い事と言うか、一つの難儀と言うか、その事を通しておかげも頂くと同時に、それをお徳にしていくと言う所に、神様の願いがあるんです。ですからおかげだけなら、私共の願い氏子の願い、これならいわば金光様ではなくても言わばいい様なもの、勿論おかげを頂く決め手と言うのがあります。一心にね一心にお参りをする、一心にお取り次ぎを頂く、一生懸命に拝む一生懸命修行でもいとわないと。そこから確かに我が心に神がござるからと仰る。その一心を立てるからおかげが頂けます。
本当に奇跡と言う様なおかげも受けられますけれども。それだけでは言わば詰まらんと思うのです。そう言う一心になるならば、その一心にならせて頂いた事柄によって、力を受ける徳を受けると言う信心になって行かなければね、神様が喜んで下さると言うおかげにはならん。そこんところを一つあのう決め手と言う。どう言う事かと言うとね、私は思うんです。十二分の徳を受けようと思えば、ままよと言う心になれよと仰せられます。ままよとは死んでもままよの事ぞと、もうこれです決め手は。
ですからもう始めからどげんなったっちゃあよかと、言う様な事だったらいけません。そこんところの信心が一生懸命出来ておる、いきょりますとね。やはりお取り次ぎを願ってお取り次ぎを頂いて帰りますと、それが一週間一月と言う風に、段々信心させてもらいよって、そのおかげな事で一心にお参りをして行く内にですね。いつの間にかですね、いわゆるままよと言う心が生まれて来るんです。一生懸命の信心を頂きよりますと、一生懸命にお縋りもせずに、そしてどうとかなろうと言うのは。
こりゃままよと言う心じゃありません。信心で言うままよそれはまぁままよではなくて、まぁ投げやりです。投げやりな信心じゃあいけませんね。段々信心が分かつて来るに従ってですね。従って起きて来るところの心。それは究極のところままよと言う心なんです。右になってもおかげです、左になつてもおかげだと信じられる心なんです。これはねだから一心の信心が出来て、その上十二分のやはり信心が出来ていきよる内にです、何時の間にか分からせて頂く。
そこに私はお取次ぎを願って、お取次ぎを頂いて帰ると言う信心がなされなければいけません。お取次ぎを願うて帰っただけではいけません。お取次ぎを願ってお取次ぎを頂いて帰って行く内に、段々行が本当のものになつて来る。教えが分かって来る。そしてその願っておるその事すらがですままよという心になっていく。こうなりますと勿論おかげも受けるでしょうが、その事を通して身に徳が受けられる。もうこれが決め手です。ですからいわゆる生易しい事とは思われませんですね。
一生懸命お参りしよるのも、この言葉聞いて貰いたいばっかり。おかげ頂きたいばっかりに参りよるのですから、さぁそれでおかげは受けます。一心にお参りをするね、けどもこれだけではおかげを受けただけでしよう。おかげを受けただけならそれは氏子が私共が、その時にはぁ良かったと思うだけなんです。だからその事を通して私共がその一生懸命の願い、一生懸命の信心をさせて頂く内にです、生まれて来る心。それはままよと言う心。ままよとは死んでもままよの事ぞと仰せられる。
そこに十二分の徳を受けようと思えばと、この徳を受けた時にね神様が喜んで下さる。どうぞ信心しておかげを受けてくれよと言うのは、どうぞ信心して徳を受けてくれよ、そこからねあの世でも通用しこの世でも通用する、いわばおかげを受けてくれよと言うなら神の願い。ただ私共が病気が治りました思い事が叶いましたと言うだけの信心では、それを只おかげと言う只のおかげではこれは、折角ならば少し信心を分からせてもろうて、例えばいわゆる安心のおかげと言った様な、そんなもんじゃないでしょうか。
どう言う難儀な問題をもって一生懸命お願いして行く内にです、いわゆる何時の間にかね、これは神様にお任せしてある心ねお任せする心。もう右になろうと左になろうと、もうあなた任せと言う心。そこに生まれて来るのが安心。それはほんなら十二分のおかげを受けようと思えばと仰るように、やはり自分でも十二分と思われる信心がなされなければいけません。その徳を実は受ける事が信心の目的でなからなければいけません。ははぁ本当にあの時自分の徳を受けたんだなぁと思われる位。
そこから一つの事があその自分のものになり、二つの事が自分のものになつて行く内に、いわゆる確固たる信念とも言う、いわゆる不動の信念いわゆる金剛不壊の心。どの様な事があっても壊れない心。ただあるものは神愛の中にある、神様のお守りの中にある私。どの様な事柄の場合に中にあっても、神様有り難うございますと言えれる心。そう言う心そう言うおかげをお互い目指して行かねばならん。銭形平次はそれこそ、銭を投げるのがその決め手ですけれども。
信心の決め手はままよと言う心になる事が、これはおかげの決め手なのです。今日の朝の御理解なんか頂きょりましてね、本当にははぁこれは合楽の信心の全てと言うて良い様な、今朝は御理解を頂いておりました。丁度まぁ三十分間約ありますから、よかったら今朝の御理解を頂いて、その合楽の信心をもう一遍頂き直すと有り難い。どうぞその決め手を体得させて貰わにゃいかんね。銭形平次だってやっぱり投げるだけじゃあいかん、投げるだけピシッッと決まって行くから決め手になるのである。信心でもそうです。
ままよと言う心が只ややもすると、お願いしとるけんどうかなろうと言った様な投げやりな心で、どうかなろうではこれはままよと言う心じゃありません。それはもう本当にそのう何と言うか余りにも、投げやりな心になりますからそれではいけませんね。ままよとはそれこそ死んでもままよと言うまぁ潔い心、そう言うこころが信心の上に頂ける。様々な問題の上に、それが自分のものになって来る時に、生まれて来る安心ですね。
どうぞ。